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平成8年9月1日、いわき市民コミュニティ放送の開局番組の模様。プロデューサーとしてQをふる
2年目のイベントFM開局セレモニーの日に
今でもオールディーズバンドを組んでいる。最高のストレス発散法
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怒濤の如く過ぎた30代
念願の朝日サリー別冊、
月2回の発行を果たして
●会社設立〜現在まで(下)
前回は学生時代や朝日サリーの誕生について書きました。読者や恩師、お世話になった皆様からたくさんの励ましのお便りをいただき感激しました。本当にありがとうございました。
「若い女の子」を脱却すべく26才で会社登記
まだ20代前半で起業した私は、「実績もない若い女の子」だったために周囲から信用を得ることができず、毎回朝日サリーの広告営業で苦戦していた。おまけに結婚も出産も経験していないため、知識の幅も狭い。そこでモニターを募集した。モニターは20〜40代の女性で、現在、市議会議員として活躍されている森田ミエ子さんもメンバーの一人だった。月一回会議を開き、様々な意見をいただいた。「WILL」というモニター情報誌も作った。座談会も開き、誌面に反映した。初代モニターの皆さんには大変お世話になり、今でも感謝している。
はじめは自宅の一角をオフィスにしていたが、そのうちいわき朝日会のご厚意で、平長橋町のビル1Fに朝日折込福島と共同で10坪の事務所を構えることができた。大谷さんと私の二つだけのデスクと中古の応接セット。窓もなく、エアコンもない暗い部屋だったが、初めて持つオフィスはとても嬉しかった。
広告も徐々に増え、確定申告も結構大変になってきた。「税制面から見ても個人より法人の方が得だし、信用をつけるならやはり会社にしよう!」と平成3年、法人登記を果たした。
FM局のプロデューサーとして忙殺された日々
「FMの番組制作をしてみない?」と、広告代理店に勤務していた山本さんから突然連絡があった。地方自治体主催の催事期間中に天気や交通情報、イベント情報などを発信するためのイベントFM局を、市内をエリアとして申請するということだった。「え?FMですか?」今まで編集の仕事しかしたことのない私が、電波媒体の制作をするなど想像もつかなかった。その半年後の平成6年8月5日、イベントFM局「SEA WAVE FMいわき」は開局する。事務局長の三浦光博さん(三浦電気工事株式会社 代表取締役社長)の指揮の下、私はプロデューサーとして番組を作り、スタッフをまとめた。FMの合間に本業をやり、寝る時間は3時間以下。何事も初めてで、壁にぶつかりながらも85日間の放送期間を乗り切った。県域のFM放送局が無かった当時、市民からの反響は絶大で、約30人のボランティアDJスタッフの頑張りも熱かった。
翌年も110日間のイベントFM放送を行い、ついに平成8年9月1日、コミュニティFM放送局として認可が下り、正式に76・2MHzの電波を流すことになった。
何か市民をひきつける目玉となる番組をと考えたのが「いわき小名浜方言講座」。鈴木史朗ばりに真面目なアナウンサーが方言を解説した後、ネイティブスピーカーというキャラクターのKさんが方言まる出しに話す。これを朝のワイド番組で放送したところ、大ヒット!局の看板番組となった。しかし裏方は大変だった。毎回収録日までに原稿を出さなければならないため、方言を発掘し、どこにいても語源や文法などの原稿を走り書きした。実に85の方言について書いたその原稿は、今でも手元に残っている。
開局までの3年の間に事務所をいわきニュータウンに移転したり、いわき風舎村や美空ひばり展など数々のイベントプロデュースを行った。朝日サリーが100号を迎えたのもこの時期。まさに順風満帆だったが、とにかく忙しく、寝る時間も休日もプライベートもなく仕事をし、いつも眉間にシワを寄せ、ピリピリしている自分がいた。FMも定着したのを機に、3年間でプロデューサー職を降りた。
夢のひとつひとつを叶えそして新しい分野へ
「子育て中のママが参考にできる本があったらきっと便利ではないだろうか」そんな考えから、朝日サリー別冊「子育てママの応援本」は生まれた。B5判128ページのボリュームがあり、制作は元スタッフだった矢吹佳代さんを中心に、ママスタッフと共に編集をし、2000年に書店発売。すぐに完売してしまった。2002年には「元気なママの応援本」を発刊。
「2005年版の予定はないのですか?」と問い合わせをいただくが、ただいま思案中だ。念願だったサリーを月2回出すことも平成14年3月より発行した「シニア朝日サリイ(現スロー朝日サリイ)」で果たすことができた。
今、半生を振り返るといつも頑張ってくれたスタッフがいた。信頼できる仲間がいた。そして応援してくれる両親がいた。彼ら無くしては今の私はないと思う。本当に感謝している。
2005年、出発の年として新しい分野に挑戦している。私の教訓として「未来は過去の延長ではない」という言葉がある。だから私は走り続けるのかもしれない。今も、そしてこれからも。 |
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