ゼロから土台を築き上げてきた誇りを
未来へのバトンにつなげていきたい |
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■役者への憧れから エンターテイメントの世界へ
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ファイヤーナイフダンスは、腰布一枚の姿で、両端に火のついたナイフを自由自在に操るサモア発祥の踊り。飛び散る火の粉をものともしない勇敢な姿は、ハッと息を呑むほどのスリルと迫力で観客を魅了する。日本初のファイヤーナイフダンサーとしてデビューしてから、今もなお活躍しているのがKen青木さん58歳。現在も舞台に立つバリバリの現役だ。
幼少の頃、実家は祖父の時代から続く映画館〈湯本座〉を営んでいた。常磐炭坑で栄えた湯本温泉街は賑わい、裕福な家庭で育った青木少年は、映画の内容をすっかり覚えてしまうほど毎日のように映画館に通った。そして、いつしかスクリーンの中の世界に憧れ、「役者になりたい」という夢を抱くようになった。ところが、時代の流れとともにテレビが普及し始め、彼が小学3年の時に映画館は閉館。同時に彼の生活も一変した。借金を抱え、授業料を払えずに悔しい思いをしたこともあったという。
それでも夢をあきらめず、17歳の時に上京。半年間芸能学校へ通い、エンターテイメントの基礎を学んだ。その後、知人の紹介で〈常磐ハワイアンセンター〉のショー司会として、ステージを踏むことになった。昭和45年、青木青年19歳の時だった。
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↑初めて火をつけて練習を行った時。当時は棒の両端にタオルを巻き付け、灯油を燃料としていたため、今よりも炎が小さかった |
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■やると言ったからには実行
歩み始めたダンサー人生 |
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オープンから数年後の〈常磐ハワイアンセンター〉では、火の踊りの人材を探していた。「火を振り回すなんて」と敬遠される中、彼に打診があった。司会の合間にしたマジックを見て、フラダンスの踊り子、小野恵美子さんが「青木くん、やってみない?」と声を掛けたのだ。何をやるかもわからなかったが、彼は「やります!」と即答してしまった。
その日のうちに、那須のホテルで開かれた現地人によるファイヤーナイフダンスショーを見に行き、初めてショーを目の前にした。「これを自分がやるのか…と、正直腰が引けましたよ。でも、男がやると言ったからには、やるしかないでしょ」。
練習を開始したはいいが、教えてくれる人がいるわけでもなく、レッスン本もない所からのスタート。フラの踊り子にバトンを習い、木の棒をナイフに見立て、イメージトレーニングから始めた。昼は司会の合間に一人練習に励み、夜は資料になりそうな本をかき集め、必死に読みあさった。思うように出来ず、「回ってくれ、回ってくれ」と願いを込めながらナイフを抱えて布団に入る日々を送った。
練習開始から10カ月後の昭和47年7月3日、ついにデビューの日がやってきた。炎を熱いと感じる余裕もなく、緊張で100%の力は出し切れなかったが、観客の視線はken青木にくぎ付けとなっていた。
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↑世界大会に出場した時の写真。体の大きな選手に囲まれた2段目中央が青木さん |
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■自己流から世界大会へ
限りない挑戦は続く |
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今でこそ、ファンがつくほどの人気ダンサーとしての地位を確立したが、当時は野蛮人として偏見の目を向けられることもあった。そんな中でも、常に新しい技を生み出そうと努力を怠ることはなかった。
平成11年48歳の時には、ハワイで行われる世界大会に日本人として初出場。自己流が通用するのかと不安に思いながらの出場だったが、結果は予選2位、総合7位の成績を修めた。そこで、驚く出来事もあった。ステージ終了後、世界的に有名な劇団、「シルク・ドゥ・ソレイユ」からスカウトを受けたのだ。年齢のことも考え断ったが、何も土台のない所から始めた自分のダンスが世界に認められた事を改めて誇りに感じたという。
現在は、若手3人の育成にも力を入れている。彼が熱心に教えていることは、自分自身で考える力。「技を盗んでも、その真似だけで終わったらいけない。それ以上のことをやってやろうと思って、自分が届かなかった世界一を掴んでほしい」。
今日まで、毎日が真剣勝負の舞台の上では様々なことがあった。ナイフを掴み損ね、顔から血を流したこと、髪の毛が燃えたこと、体には無数の傷としてその歴史が刻み込まれている。
定年まであと2年。若手のスピード感には劣るものの、彼が舞台に上がると会場全体の温度が上がる。それは、彼自身が誰よりもショーを楽しみ、それが観客に伝わるから。「最後の最後まで突っ走りたい…」。Ken青木の最終章を多くの人に感じて欲しい。 |
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↑ハワイアンズの開園当時から続くポリネシアンショーは、毎日昼と夜の2回行われ、ファイヤーナイフダンスは見どころのひとつ。この日は、取材のため、腰を痛めながらもステージに立ってくれた |
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