朝日新聞のコミュニケーション誌「朝日サリー」  

HOME私を語るTOP>vol.248

福島県立いわき総合高等学校陸上競技部 監督
vol.248 佐藤修一さん
PROFILE
1977年いわき市生まれ。田村高校を卒業後、順天堂大学に進学。教員採用試験に合格し、母校である田村高校へ体育教師として赴任。3年間教鞭を取った後、2002年いわき総合高校(前 内郷高校)へ赴任。陸上部の顧問を務める。

「目標は明確に持つこと」
 生徒と共に上を目指して走り続ける
■敗北の悔しさから陸上の世界へ
 学校から帰るとランドセルを放り投げ、外で走り回って遊んでいた。走ることに関しては誰にも負けない自信を持ち、少年時代を過ごした。中学ではサッカー部に所属していたが、その脚力を認められ、特設の陸上部の選手として抜擢された。県大会1、500mでの決勝。わずか0.1秒という差で2位に終わり、涙を飲んだ。迎えた全国大会では、肉離れを起こし最悪の結果に終わった。そして、県大会で敗北した相手が全国を制したのだ。
 「今まで、誰にも負けたことがなかったのに…」悔しさが闘志へと変化した瞬間だった。それからは陸上にのめり込み、同時に当時の陸上部の顧問・村田弘先生に憧れを抱いた。「先生のようになりたい」。さらに上を目指すため、そして教師になることを目標に、陸上の名門・田村高校へと進学した。
 下重庄三監督のもと、土日も休むことなく部活漬けで練習を重ねた。周りの遊んでいる友達を見てうとましく感じたこともあったというが、黙々とトレーニングに励み、その結果、国体2位という記録も出した。卒業後は、順天堂大学へ進学し、迷わず陸上部に所属。400人程の部員の中で頭角を現すことは至難の技であるが、中距離走のキャプテンを命じられ、全日本インカレでは2位という成績を収めた。

■選手としての挑戦 指導者としての挑戦
  卒業後は、実業団入りも考えたが、元々目標としていた教師の道に進み、母校でもある田村高校で教鞭をとった。自分が今まで経験してきた分、できない時の生徒の悔しさやもどかしさを感じとれる。生徒と一緒に走り、同じ目線で指導をした。そして、教師になってからも選手としての挑戦は続け、教員1年目には全日本選手権2位という記録も打ちたてたのだ。田村高校で3年間を過ごし、2002年春、内郷高校(現いわき総合高校)に赴任することとなった。
 当初、陸上部員は初心者に近い女子生徒2名のみ。そこで初めに掲げた目標は、他校と同じレベルの練習をこなせるようになることだった。決して強くはなかったが、生徒たちは彼の教えに一生懸命応えてくれ、17年間休止していた駅伝チームも復活させた。年々と部員は増え、目標も徐々にハードルを上げた。東北大会に出場したい。次は、県内無敵の田村高校を破りたい…。「目標を明確にすること」それが生徒のやる気にも繋がっている。着任後4年目には、駅伝女子チームで悲願の全国大会への出場を勝ち取った。
 
■怖がらずに前へ進む 強くなりたいと願うから
 部の練習は毎朝7時から授業を挟んで19時まで、土日も欠かすことなく行っている。2番より1番を目指すこと。人よりも少しだけ努力すること。怖がらずに前へ進むこと。決して簡単ではない要求を、生徒たちは無垢なままに応える。
 「試合の勝敗は、強くなりたいと思う気持ちを持っているか、そうでないかの違いで決まります」。いかにもシンプルな理由が彼らをつき動かしているのだ。いわき総合高校は、駅伝チームで3年連続全国大会出場という成績を修め、陸上の強豪チームへと成長した。
 今年1月2日の「箱根駅伝」では、同校出身、東洋大学の柏原竜二選手が往路5区で区間新記録の走りを見せ、チームを優勝に導く快挙を成し遂げた。テレビの前で、地元選手の活躍に手に汗を握って応援した人も多いだろう。会場の多くの声援の中、柏原選手の走りを彼も見守っていた。「結果を出すまでの過程を知っているからこそ、教え子が活躍する姿を見るのは本当に嬉しかった」と語る彼にとって、生徒は自分の子ども同然だ。
 いわき総合高校の強さは、先生と生徒の絆によるもの。その絆はたすきとなり、また次の世代へと繋がっていくだろう。
↑取材したこの日は、1周約2.5kmのいわき陸上競技場の周りを10周する練習メニュー。額に玉のような汗を浮かべ、ひたすら前を見て走る生徒の姿が印象的だった

| お店の推薦・クチコミ投稿 | プライバシーポリシー | 広告掲載について | お問い合せ |
(C)image Co.,Ltd. All Rights Reserved.
有限会社いまぁじゅ