涯てからの風、出会い、創造
南東北から世界に向けて新文化発信 |
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■津軽方言の詩集から縄文魂の扉は開いた
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双葉郡富岡町生まれ。近くに映画館があり、小銭を握りしめて週2〜3日一人で通った。少年はスクリーンを通じて日本の現状を知った。「シティボーイになりたい」そんな夢を託して上京。大学時代には下高井戸に住み、文学研究会に所属。サブカルチャーに触れ、自由な思想の中で過ごした。4年生になると、学生運動が盛んになり、大学は封鎖された。その渦中、バリケードの中で青森出身の後輩が一冊の本を朗読してくれた。津軽方言で書かれた詩集・高木恭造の『まるめろ』だった。「なんて美しい言葉、まるで音楽のようだ」この経験が縄文魂のきっかけとなるとは、誰が予想しただろうか。卒業後は両親の希望もあり、福島県教員採用試験を受験。首尾良く合格し、教師となった。生まれた家も無くなり「自分は根無し草」と語る彼にとって、県内の高校を転々とする教員は向いていた。教師になって間もなく、例の後輩の「津軽に来てみないか?」という言葉に二つ返事で応え、津軽に向かった。初任給2万8、500円。図書購入費が家計を逼迫し、決して楽な暮らしではなかったが、長期休暇には必ず津軽に足を運び、三上寛をはじめ多くの表現者などと繋がっていくのである。
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↑平成9年に行われたVol.30「東北 鬼市場」より。左が舞踏家・福士正一氏、中央が遠藤ミチロウ氏 |
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■三上寛に始まり、国内外の表現者を呼ぶ
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30歳でいわきに転任となった彼は、結婚もし、平凡な暮らしを送っていたが、何かしっくり来ない。そこで今まで縄文津軽で出会った表現者を紹介していく場を企画してみようと友人の渡部文夫さんと共に昭和5年冬、実行委員会を結成。翌年8月には第1回のイベントを開催。前衛的なフォークシンガー三上寛氏を迎えた。津軽出身の三上氏とは、新妻さんが彼に宛てた一通の手紙が縁でつながった。いわきを度々訪れた彼を通じてたくさんのアーティストたちと繋がっていった。
1回目の会場はかつて東映ビルの中にあった〈キネマ館〉。超満員の中で行われたイベントは大成功を収めた。昭和59年からはボーナス時期に合わせて年2回公演となった。毎回観客は動員するものの、常に持ち出しになるためだ。2回目には青森市に自ら劇場を持ち、俳優として活躍していた牧良介氏の津軽方言一人芝居を開いた。4回目にはまだ無名の頃の伊奈かっぺい氏を呼び、5回目にはバリケードの中で知った方言詩集の作家・高木恭造氏を呼んだ。当初は縄文津軽に関わりを持つ表現者が中心だったが、その後、沖縄、韓国など国内外のアーティストたちが出演するようになった。
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↑平成20年7月に行われた「第二回風塾」より。出来上がった絵本を持つのが沢田としき氏 |
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■創造現場での試みは限りなく広がる
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風の祭りでは「ライブ」や「ステージ」では無く「創造現場」と呼ぶ。ジャンルを超えた表現者たちが、即興性を重視し、この現場でなくては創り出せない新しい芸術文化を創り出すためだ。例えば元スターリンの遠藤ミチロウ氏が歌い、イラストレーターの沢田としき氏が5m×10mの巨大な布にペインティングを施していく。わずか90分で絵は仕上がるが、現場の雰囲気で全てが進行していくのだ。
また、平成20年7月には沢田としき氏による「風塾」が行われた。15人の子どもたちに6ページの絵本を作ってもらうが、テーマはその場で与えられる。3時間半かけて制作し、その後、自分で読んで発表をする。「今の自分から未来の自分へ」というテーマで描かれた作品はどれも興味深いものばかりだったという。
「私自身が表現者になれないから、その企画を通じて、自分を表現したい」と語る新妻さん、実は11月21
日に脳梗塞で倒れた。しかし軽度のうちに発見したこともあり、若干の後遺症は残るものの、すでに退院をし、1月の企画に向けて頑張っている。寺山修司の短歌・俳句・詩の朗読に、前衛舞踏と即興音楽がコラボレーションする試み。いったいどんなものになるのだろう。南東北からの文化発信が止まることなく続けられることを切に願っている。
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↑平成11年に行われたVol.35「風魂−日韓交流・文化の融合」より。5m×10mの即興作品は圧巻 |
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