「演劇」を通して集まった仲間たち
若き青春時代を胸にステージに立つ |
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■あの先生の演劇が観られる会場には多くの人が溢れた |
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5月31日、劇団いわき青春座の『正直屋物語』の幕が上がった。会場の〈小名浜市民会館〉の客席は、旗揚げ公演としては異例の700名の客で埋め尽くされた。「目指すは、笑いと涙の大衆娯楽芝居」というキャッチコピーの通り、劇中は笑い声や感動の拍手が起こり、クライマックスでは涙する客も多くいた。
時は、江戸時代。東海道・小田原の旅籠「正直屋」を舞台に繰り広げられる、落語「抜け雀」を土台にしたオリジナル作品。屋号の通り、バカ正直な亭主としっかり者の女房が営む旅籠に、ふらりと投宿した絵師・狩野珍幻斎。一文無しの彼が宿代の代わりにと絵を描いたことから物語が展開していく。「ニートの総領息子」など登場人物は現代風に表現し、台詞には世情を織り交ぜながら親しみやすくした。幅広い年代が共感できる、ホームドラマの様な脚本と演出。担当したのは座長でもある、児玉洋次さんだ。 |
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↑この日、お披露目した紺碧の団旗と共に。公演終了後、安堵の笑みがこぼれる団員と児玉さん(前列右)。特別出演した子役たちもしっかりとした演技をみせた |
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■少年時代から好きだった芝居今も好奇心を忘れずにいたい |
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「家には録画用の機械が4台。毎日フル稼働しています」。時代劇から学園ドラマまで、ジャンルを問わず数多くの作品を観るため。また、全国各地の劇場で、その日、その場所でしか感じることができない生の舞台に足を運ぶ。多方面から情報をキャッチし、芝居の研究に時間を惜しむことはない。起きてから、寝るまで脚本のネタを探す生活…。登場人物のキャラクター設定は、身近なところからヒントを得ることも。例えば、狩野珍幻斎の父親・八宝菜は、実際に長年通ったもつやき屋の主人がぴったりのイメージだった。「頑固親父!しかし厳しい言葉の中に優しさが溢れている」。言葉遣いや雰囲気まで、ていねいに役者に伝えた。
いわき市の高校演劇の育ての親として有名な児玉さん。演劇部顧問として全国大会で多くの功績を残した。しかし、驚くことに自身は演劇の経験がない。実際に観て感じた事を常に「客の目」で演出をするからこそ、役者にも伝わる。そして、お客さんにも必ず伝わる。その気持ちを守り、指導を続けてきた。
もう一つ、続けてきたこと。演劇に携わる際、大好きな俳優・石原裕次郎さんと渡哲也さんからとった「石原哲也」というペンネームを使う。それは「演じる」という言葉に共通するもの全てに、興味を抱いていた少年時代の初心を忘れないため。その頃、映画館には数えきれないほど通った。それと同じく、ラジオから流れる落語も好きで、毎晩のように聴いた。中でも印象に残っているのが五代目古今亭志ん生の「抜け
雀」。小さい頃に感じた面白さが忘れられず「芝居にしてみたら、きっと…」という思いから80ページ、約2時間の脚本を1ヵ月半ほどで書き上げた。 |
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↑鉄瓶を叩き決め台詞を言うシーンの練習。緊迫した雰囲気を出すために、叩く場所を役者と何度も確認する |
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■大人になってもできる 大好きな演劇を続けること |
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台本の完成と共に、稽古がスタートした。出演者の他に、音響や大道具など団員は26人、19歳以上が集まり結成した社会人の劇団。仕事や家庭の事情で練習日にメンバーが揃わない日の方が多い。夜7時ぐらいからスタートしても10時前には片付けを終わらせるため、練習時間は2時間半がやっと。公民館や倉庫での練習後に、カラオケボックスに行き練習したこともあった。稽古の他に、舞台道具や衣装、ポスター作成も自分たちで行った。「練習したいのに、時間がない」気持ちばかりが焦ってしまった時期もあったという。
職業や年齢はバラバラ。しかし、ある一つの共通点で集まった…。「児玉先生と演劇がしたい」。元・小名浜高校と湯本高校の演劇部。みな、顧問である児玉さん指導の元、演劇を学び高校時代を過ごした、同じ思い出がある仲間。「結婚後、ホームヘルパーの仕事と子育てを両立させている」「出張が多く、なかなか練習に参加できない」「家業の魚屋を継ぎ、朝が早い」。あの頃の放課後、部室に駆けつけたように集まることはできない。しかし「演劇」と共に過ごした青春時代に感じた想いを胸に、これからも走り続けていく。 |
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