「人生ナンバーワンでいたい」
ドニーマンの挫折と成功の半生 |
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■北米の大会で総合3位日本勢では10年目の快挙 |
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2008年1月31日…昔は、パイロットになりたかった。多分、大空を自由に飛び回るのがうらやましく思ったからか。いま、いわきに帰ってきて丸11年。東京にいた時代についていた速く飛べるウィングが、いわきにきたら、理由はわからないが折れてしまった。しかし、ここにきてこの高速ウィングが復活してきた。また、大空をおもいっきりとぶぜ。世界のはてまでいってやる。
これは坂本さんが毎日のように書いているブログより抜粋したもの。今、大きく翼を広げ始めた彼は、2月14日から3日間に渡って行われた社交ダンスの国際大会「北米フレンチオープン」に妻の純子さんと共に出場した。カナダ・モントリオールに世界各国の選手がチャチャチャ、サンバ、ルンバ、パソ・ドブレ、ジャイブの5種目の合計得点を競った。国際大会にアジアの選手が出場するのも珍しい中、シニア部門で総合3位という快挙を成し遂げた。日本勢では10年ぶりの快挙となった。
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↑日本〜モントリオール16時間の移動を経て、風邪をひくなど体調も思わしくない中で臨んだ大会だったが、銅メダルと賞金を獲得。賞金は交通遺児へ寄付した |
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■キャバクラダンサーからナンバーワン営業マンへ |
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活発で好奇心旺盛。生死を彷徨う交通事故も乗り越え、小学校では目立つ存在だった。ところが中学で生活は一変。学区の関係で仲間たちとは離れ、クラスの中で孤立した。友達もできず、殻に閉じこもる1年が過ぎた。「周りは敵だらけ」そう考えた彼は反骨精神の固まりとなり、ケンカ三昧の中学生活を送った。磐城高校に進学し、野球部に入部。理由は思春期の男の子らしく「女の子にモテるため」。背番号4番のピッチャーとして甲子園に出場するヒーローになることを目標に、野球の練習よりサインを書く練習をしていたという。結局その成果を生かすことはなかったのだが。
やがて大学へ進学。彼にとっては東京に行くための手段だった。小学生の時、テレビで見たディスコダンスに興味を持ち、東京のディスコを制覇する野望に燃えていたという。大学にもろくに行かず、バイトとディスコに明け暮れ、当然のことながら出席日数が足りず留年。結局、大学は中退したが、ダンスの経験がものをいい、立川のキャバクラで日本人初の男性ショーダンサーに抜擢。ジュリアナ東京やベルファーレのVIP会員にもなり、当初の目標も達成したことを機に、きちんと就職することにした。実家で土地を所有していることもあり、不動産業へ。1年間は営業成績ゼロの辛い時代を送るが、持ち前の精神力と努力で5年目には西東京地区不動産営業実績ナンバーワンの座に君臨。一人で年商26憶という驚異的な数字も叩きだした。
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■英・ブラックプールダンスの聖地で踊る |
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仕事も人生も順風満帆。そんなある日、香港に遊びに行った。ディスコではマダムたちを相手にジルバを踊ったら、とても喜んでくれた。
「ヨーロッパでは社交ダンスこそ国際的なビジネスには不可欠で、踊れることがステイタス。そして何より全世界の女性に喜びを与える、まさに自分にピッタリだ!」日本に帰るなり、教室に通い始め、7カ月でノービス戦に出場。70組中4位の成績を修めた。当時はモダンも踊っていたが、男性と女性が自由な振り付けができ、表現の仕方も自分に合っているラテンの道に絞り、新パートナーも探した。「ダンスお見合い」をすること33回。それでも決まらなかったのに、友人の結婚式で余興を練習した純子さんと意気投合。ダンスばかりか人生のパートナーとしても運命を共にすることとなった。
32歳の時、いわきにUターン。〈プリンセスアイ〉をオープンさせ、1階にカラオケ、2階にダンスホール及びパーティホールをスタート。純子さんと共にダンスサークルも開催し、多くのダンサーを育ててきた。その傍らで自らも大会に出場。昨年だけでもイーストジャパン3位、世界大会選考会銀メダル、東北グランプリ前・後期優勝という好成績で突っ走る。そして5月末にダンスの聖地と言われているブラックプール・フェスティバルに参加が決定。「もちろん、優勝狙いますが、楽しむことに対して、1位になりたいですね」と話す。「人生ナンバーワン」それが彼の信念。そしていわきから世界へと羽ばたく。さらに強くなった翼を広げて。 |
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↑水曜日のラテンレッスン。厳しさの中にも踊ることの楽しさがあふれる活気のあるクラス |
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