レジー・スミスの理念を受け継ぎ
未来のメジャーリーガーを育てる |
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■野球に明け暮れたファイトマンの青春
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小学1年の滝口少年はグラウンドで一心不乱にボールを追いかけていた。ソフトボール部には4年生にならないと入れない。でも野球がしたい。仲間に入りたい彼がとった行動は球拾いだった。『ファイトマン』いつしか人は彼をこう呼ぶようになった。小学3年で平リトルリーグに入団。そこから野球人生がスタートした。中学・高校は硬式野球部に所属、小柄な彼のポジションはセカンドが多かった。高校では寮生活。朝練は6時に始まり、終業と共にグラウンドへ行き、21時まで練習は続いた。厳しい先輩の指導にも堪えた。60人いた新入部員も卒業の頃には10人足らずとなっていた。大学では経営経済科に進学するも、4年間野球を続けた。'94年春、卒業を目前にし日本ハムファイターズのプロテストを受験。結果は不合格。技術以前に身長163?の彼は「170?以上」という条件を満たすことができなかったからだ。「日本では勝負ができない」と彼は単身渡米し、マイナーリーグに挑戦。約200人の受験者の中から30人程度に絞られる最終選考まで残ったが、合格には至らなかった。 |
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↑米国でセンター勤務中にレジー・スミスと。今でも指導法などで迷うと直接電話でアドバイスしてくれる |
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■渡米・挫折・実家の廃業
波瀾万丈の10年間を経て |
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カリフォルニア郊外の寿司店でアルバイトをしながら、英語を勉強した。野球の練習もしたいと、近隣の大学の野球部に仲間入り。学生でもない彼が参加できたのは、やはり球拾いがきっかけだった。そして迎えた2年目の挑戦も敢えなく惨敗。「試験官に”君の技術はアメリカの大学生レベルだね“と言われ、目が覚めました。自分のレベルがどの位であるかは薄々気が付いていたんですけど、夢を諦めたくなかったんですね」その後、アパレル系の貿易会社に2年間勤務、英語を覚えながら次のチャンスを待つことにした。そんなある日、以前から肝臓が悪く、体が弱かった父の体調が思わしくないという知らせが入った。家業の材木店を手伝うために急遽帰国を決めた。しばらく日本を離れていた上に、初めての職種。戸惑うことはたくさんあった。しかし不景気のあおりを受け、経営は思わしくなく、残念ながら廃業することに。
その後、仙台の牛タン店に勤務して、海外出店の計画などを立てていると、福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)で通訳を募集していることを知る。しばらく離れていた野球界だったが、迷わず飛び込んだ。2000年、彼は28歳になっていた。1年の契約期間を終え、もう一度きちんと野球の通訳をしたいと渡米。ロサンゼルスの旅行会社に勤務することでビザを取得し、チャンスを待った。そして、いよいよその時は訪れる。'02年ドジャースの通訳兼ウェブサイト記事担当として就任することができたのだ。 |
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↑慶応大学4年の阿部和光治君の個人レッスン。フォームを撮影しパソコンでチェックしながら指導を行っている |
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■日米初レジー・スミスの
看板を受け継ぎ、日本で独立 |
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ウェブサイトの記事を書いている時にレジー・スミスを知る。効果的な野球指導理論を確立し、たくさんのメジャーリーガーを育てている彼に興味を持ち、〈レジースミス ベースボールセンター〉を訪ねた。まずは個人レッスンを見学。バットにかすりもしなかった子が、30分後には球を打っているその姿を見て、唖然とした。この指導法を覚えたいと当初は3ヵ月の予定でサポートスタッフとして入ったが、結局5年間勤務することとなった。
レジー・スミスの指導法は生体力学の理論を基づいている。どのように体を使えば、最高の力を発揮できるのかをベースに、一人一人に合わせた指導を行う。これを日本の子供たちに伝えたいと'06年帰国し〈レジースミス ベースボール‥ジャパン〉を立ち上げた。学法石川、日大東北をはじめ、市内外のチーム指導の他、少人数でのプライベートレッスンを行っている。「日本野球界の発展のために、確かな野球技術を若い世代に伝え、世界で通用するような選手を育てていくことに使命感を感じています」。目標はメジャーリーガーを育てること。『ファイトマン』は世界の舞台に上がることはできなかったが、指導者として今、夢のバトンをつないでいる。 |
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