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vol.230 高橋予志子さん
PROFILE
たかはしよしこ● 昭和10年、岩手県盛岡市生まれ。高校卒業後市内企業に就職。昭和35年彰氏と結婚。同年夫婦でいわきへ移転。昭和42年一級建築士の国家試験に合格、資格取得後、昭和44年独立。昭和60年、舌下部腫瘍切除手術を受ける。平成4年、C型肝炎と診断され、インターフェロン治療。平成6年右乳房悪性腫瘍全摘手術を受ける。平成7年「高橋新聞」創刊。以後、一度も休刊することなく続いている。現在高橋デザインルームの代表であるご主人・彰さんと毎回、新聞の終面に登場する愛猫・リンゴとの3人暮らし。

病気に負けないために発刊新聞家族のキャッチボール
■度重なる病気との闘い生きる目標を持つために
 平成7年1月1日、高橋新聞は産声をあげた。トップページの見出しが嬉しそうに踊る。「高橋新聞いよいよ発刊! いわき発〜生活情報ニュース」。ここまで至る道のりは決して平坦ではなかった。
「新聞を作ってみようか」と夫婦の間で話が出たのは2年前の秋。予志子さんは帝王切開で二人のお子さんをもうけた後、膵臓の不調が続いた。昭和60年には舌の裏側に腫瘍ができ、検査の結果悪性と診断。舌の3分の1を摘出する手術を受けた。「話ができなくなるかもしれないという恐怖はよりも、いつか必ずもう一度、カラオケで歌おうという気持ちの方が強かったですね」と当時を振り返る。会話も戻った2年後、頚部リンパの手術も受け、後遺症は残ったが、仕事にも復帰していた数年後、かつて受けた輸血が原因か、C型肝炎を発症し、インターフェロン治療を開始した。辛い副作用と闘いながら仕事を続けた。しかしそれだけでは終わらなかった。気になる右の乳房のしこりは乳ガンだったのだ。平成6年6月、全摘手術を受けた予志子さんは、「こんなことで負けてはいられない、この先病気とサヨナラして、入院をしないためには、仕事以外にも何か生き甲斐を持たなければ」と強く思った。そして夫の彰さんと二人の還暦を記念して、平成7年の元旦を「高橋新聞・創刊号」にしようと決めたのである。
↑創刊号はB5判4ページだった
■情報発信は年齢に関係なく大切
 新聞は当初、B5判4ページ。予志子さんがワープロで入力し、テプラで見出しを作り、切り貼りして版下を作りコピーをした。創刊号では平駅の改称の話題や高橋家の十大ニュースなどが紙面を飾った。トップページのコラム「独り言」は毎回彰さんの担当となり、この号には「何かを常に発信する感覚を持つということは年齢に関係なく大切なことだと思う。そのパワーはそれを読んでくれる側、一人ひとりの顔を常に想像し、思うことをご理解いただきたい」とあった。その思いは今でも連綿と続いているだろう。
 彰さんは現在、クラフトデザイン・製作やインテリアデザイン等を手がけている。この号が出る頃は毎年恒例の蓼科での個展を開催中。独創的でありながら温かくナチュラルなセンスは、全国にファンも多い。
↑彰さんのデザインルームはクラフト展の作品であふれていた
■一度も欠かすことなく新聞を発行し続けて
 予志子さんは創刊以来、月日の流れの速さを感じながら、楽しみながら作業を続け、入院をしないで9年間が経過したが、平成16年に腸閉塞で緊急手術を受けた。それでも半月発行が遅れた以外は毎月欠かさず新聞は届けられているという。
 現在は毎号読者からの投稿協力も多く、原稿や写真やイラストを寄せてくれる。作成の仕方は創刊時とほぼ変わらず、ワープロで入力し、記事や写真を切りながら台紙に貼り、カラーコピーをしているそう。「パソコンも買ったんだけど、やっぱりワープロがやりやすくて」と編集長は笑う。
「私の新聞だから私が元気でいるということを伝えるのが目的なの。今は情報発信者の記事に対して、読者からメールやお便りをいただくので、いつからか『新聞家族』という言葉ができ、紙上でのお便り交換等もあって『新聞家族の言葉のキャッチボール』と呼んでいるのよ。常に病気の不安はあるけど、高橋新聞を読み返していると勇気が湧いてくるの」。
 支局は長女・文子さんの住む熊本市と、次女・法子さんの住む北見市にある。高橋新聞は今年72歳の6月で150号を迎えた。76歳の8月には200号、80歳を迎える年には21年目に突入する。夢は大きく広がり、目標があるから元気でいられる。心のキャッチボールが末永く続いていくことを願って止まない。
↑今年6月1日発行の記念すべき150号。現在新聞は市内外に住む家族、親戚、友人など60名に送っている。

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