店の存続をかけて作った焼そば
親子二代に渡って引き継がれる味 |
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■富山の薬売りからラーメン屋の店主へ
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その日はいつものように暑い夏の朝だった。野馬追いで賑わう浪江の駅前に一軒の店が看板を出した。カウンターに8席と2人座り用の簡易テーブルが2つのこぢんまりとした店の軒先には縄のれんが揺れる。メニューはやきとりや簡単な酒のつまみがメイン。昭和30年7月12日、オープン初日は祭りの中日だったことも手伝い、3、000円の売り上げがあった。そばが一杯30円、小学校教員の初任給が一ヵ月8、000円という時代、一日でこれだけの売り上げをあげれば大成功。ところが次の日は1、500円、祭りが終わった途端パッタリと客足は途絶え、数人の客しか来店しない日もあった。「このままでは営業を続けることさえ難しい、何か店の目玉を出さなければ…」初代主人・高 広光さんは1ヵ月間かけて店の存続をかけて探し求めた。富山県出身。薬売りをしながら全国を巡った。偶然訪れた浪江で将来店を支えることになるスミ子さんと出会い、行商を辞め、浪江に定住。結婚後、家族を支えるために店を開店した。そして、とうとう見つけた味が「焼そば」。しかも極太の麺を使用
し、鉄板で焼いた屋台の味。しかし、富山県出身の主人は「よそもの」扱いで、偏見に苦しんだ時期もあったが、おいしい評判は徐々に広がり、いつの間にか浪江名物の看板メニューとなっていった。 |
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↑縄のれんが揺れる店の外壁にご主人作の絵「ヤキソバン」が描かれている |
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■兄の早すぎる死で店を継ぐことに |
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開店から53年の月日が流れ、今では次男の紀元さんが店を継いでいる。昭和34年生まれの48歳。小高高校ではボクシング部に所属し、卒業後、専修大学に推薦で進学。モスクワ五輪を目指していた。大学卒業後は大手食品メーカーに勤務し、体育会系営業マンとして各地で勤務した。
縄のれんは兄が後を継ぎ、父と共に営業を続けていたが、病気で兄が他界。北海道に転勤が決まった矢先のことだった。紀元さんは兄の代わりに店を手伝うべく、仕事を辞め、 歳の時に家族と共に浪江に移転した。小さい頃、忙しい時に店を手伝うことはあっても、厨房に入ることはなかったので、調理は初めての経験。しかし「習うより慣れろ」主義の父は何一つ教えてくれず、見よう見まねで配合や作り方を覚えたという。ただ一つだけ教わったのは冷やし中華のタレの配合。「うちのは酢でもスープでも全て自家製。必ず一手間かけてます。それが親父の主義だったから」先代も9年前に亡くなり、今では奥様・育子さんと二人で店を切り盛りしている。 |
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↑昭和39年、現在の場所に移転。味のある店内には幅広い世代のお客で賑わう |
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■焼そばと味噌ラーメンは先代から引き継がれた味 |
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〈縄のれん〉の看板メニューである「焼そば」は冒頭でも書いたように讃岐うどん並みに太く、歯ごたえがある。時間をおいてものびない麺を地元の製麺所と試行錯誤の末、作り上げた。麺は約25分ゆでる。それが独特の食感を生む。その日の温度や湿度によってゆで時間を変える徹底ぶりだ。地元産の野菜、豚肉を加えて炒め、特注の配合のソースで仕上げる。肉からしみ出る脂とラードがまったりと麺にからみつく。そして、もうひとつの人気が「味噌ラーメン」。焼そば同様、先代が作ったもので、コクのあるあんかけ風の味わいは他に類をみなかった。味噌は醸造元に配合を依頼し、温度や湿度管理は自らが行い、1年間寝かせたものを使用。ゴマ油などを加えて炒った後、肉と野菜ととんこつスープを加え、あんかけ風にする。それらを麺の上にどっとかけて完成。運ばれてきたら麺とあんかけを豪快に混ぜて食べる。そのうちあんかけがほぐれてさらっとしたスープになり、一度に二度楽しめる味。
現在昼は麺類のみ、夜は炭火で焼くやきとりの他、手作りの塩辛などの一品料理も味わえる。また酒にもこだわりを持ち、生ビールは3月上旬〜9月下旬までの季節限定で、氷で冷やす。日本酒は10月下旬〜2月下旬までなら樽酒をひのき一合升で飲める。「いつも変わらぬ味を出したいんです。こないだ来た時はおいしかったのに…というのが一番良くないでしょ。それから真心を込めることですね」。
今日も縄のれんをくぐってたくさんの客が訪れる。 年以上
受け継がれてきた「いつもの味」を求めて。
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↑看板メニューの味噌ラーメンはにんにくの旨みが効いた個性的な味わい |
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↑「ノンモさん」とお客に慕われるご主人はとても気さくで会話も楽しい |
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