魂をこめて麺を打ち、スープを煮込む
誰も追随できない味を作り続けて
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■魂をこめて麺を打ち、スープを煮込む
誰も追随できない味を作り続けて |
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広野町の山あいに佇む〈活力屋〉。あたりには民家すらない。「崖っぷちに身を置いて、魂をこめてラーメン作りをしています」というご主人・藤田裕隆さん。昭和23年福岡生まれ。父親の転勤で全国を転々とし、9歳の時にいわきに移住。「9のつく年に転機が訪れる」というご主人。19歳でリュックサックひとつ背負って家を出て、東京へ。築地市場の人足や港の沖仲士、バーの店員、セールス員など就いた職種は数知れず。セールスの仕事では全国を飛び回った。そんなある日、東北での営業を終え、折角だから故郷の海を見てから東京に戻ろうと、四倉海岸に降り立った。遠浅の砂浜に打ち寄せる波…幼い頃に見た風景がそのまま広がり、まるで時間が止まったようだった。29歳の夏、いわきへのUターンを決めた。
地元では直感で訪問した自動車販売会社に就職、20年間勤務したが「定年のない自営業をしたい」とテイクアウトの焼き鳥店を楢葉町に開業した。しかし、ノウハウもない自己流だったことに加え、全国でO157(病原性大腸菌)の集団感染が勃発。肉類の売り上げは極端に落ち込む現象が起き、客足は遠のいた。「このままではいけない」と一軒一軒を訪ね、売り歩いた。最初こそは珍しさに売れたが、2度3度となると断られるようになり、大量に売れ残ってしまった。雪の降りしきる中、川岸の行き止まりの道で焼き鳥を抱えながら、呆然と立ちつくしていた。 |
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↑ログハウス風の建物に青いのれんが目印 |
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■〈とら食堂〉に弟子入り49歳で独立、開業 |
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結局焼き鳥店は廃業し、借金だけが残った。挫折と焦燥感の中、新聞で読んだ白河ラーメンの老舗〈とら食堂〉の記事を思い出した。「命を削って麺を打っています」。その一言にもう一度だけ人生を賭けてみようと思った彼は、すぐに白河の店へ向かった。そして「弟子にしてください」と何度も頭を下げた。「その年では無理、やめた方がいい」と最初こそは首を縦に振らなかった主人も、その熱意に根負けした。朝3時に起床し、2時間かけていわきから白河まで移動、帰宅は当然深夜だ。1年間通い続け、平成10年49歳で独立、念願の店を開店した。こんな辺ぴな場所に店を出すと聞いた友人たちは口を揃えて反対した。しかし彼には信念があった。「実力のある若手や既存店に対抗するには、絶対に妥協は許されない。あえて辺ぴな場所を選び、ここまでわざわざ食べにきてもらう味を目指す」それが『崖っぷちに身を置く』ということだったのだ。あれから10年の年月が流れ、今や押しも押されぬ人気店となった。あの雪の夜があったからこそ今がある。失敗や挫折をしたままでは何も生まれないし、先にも進めない。それを教訓とし、糧にすることが成功への第一歩となるのだ。 |
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↑左が普通の麺で右が1日限定20食の全粒粉の麺 |
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↑生ハムのようなチャーシューは唯一無二の味わ |
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■一切の妥協を許さない魂をこめて作る味 |
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〈活力屋〉の麺はもちろん手打ち。早朝から麺打ちが始まる。普通の麺に加え、山形の田舎そばからヒントを得た全粒粉100%の麺も打つ。切れやすくぼそぼそとした食感となってしまう難題を彼の工夫でクリアし、コシの強い麺に仕上げた。そして看板メニューである雲呑の皮も2時間かけて作る。下に敷いた新聞の文字が透けて読める程伸ばす。そうするとスープの上でまるで雲に浮いているような光り輝く雲呑となる。スープには鶏ガラや煮干しを使わず、名古屋コーチンの丸鶏のみを使用。6時間ほど煮込むが「朝の40分で全てが決まる」と話す。雑味がなくキレがありながらもまろやかな味わいだ。そしてチャーシューが絶品。もも肉にもかかわらずまるで生ハムのように柔らかく、味わい深い。これには低温スチームという調理法を取り入れているそう。「今までにない全く新しい方法でラーメンを」と試行錯誤していた7年前、その存在を知り「これだ!!」とひらめき、研究者を直接訪ねて話を聞いた。最近では愛知万博で紹介された不思議な力をもつ「酸素ナノバブル水」をスープに使用している。常にアンテナを張り、誰にも追随できない味を創り出す。「自分が〈とら食堂〉の主人に助けられたように誰かの力になりたい」。そんな気持ちから現在は積極的に弟子も募集している。現在4人の弟子が独立し、5人目も修行中。今年、59歳。節目の年にはどんな転機が訪れるのだろうか。 |
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↑ご主人・藤田裕隆さん。ラーメンと向き合う時は表情がひきしまる |
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