有機栽培でふっくら育った大粒のイチゴ
安心でおいしい農業にこだわって |
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■抜群に甘い大粒イチゴ
未知の分野、農業への転換 |
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「あの味が忘れられなくて」「やっぱりイチゴはここのが食べたいから」。毎年この時期を待ちかねたように、全国から木田さんのもとへ寄せられる声。新舞子でイチゴ農園を営む木田増男さん・テイ子さんご夫婦は、約20アールの土地に立つ10棟のハウス内で、2万株以上のイチゴを栽培している。品種は「とちおとめ」と、今年新たに福島県の奨励品種「ふくはる香」が加わった。中には1粒100円でバラ売りもしている、子どもの手には余るほど大粒のものもある。真っ赤に完熟したイチゴは、どれも驚くほど甘い。通常のイチゴが平均糖度9〜11なのに比べ、木田さんのイチゴは糖度17。メロンに匹敵する甘さだ。
木田さんご夫婦がイチゴ栽培を初めたのは昭和48年。この年は、日本にとっても木田さんにとっても忘れられない年となった。第一次オイルショックである。日本全体を襲った混乱の余波は、当時、養鶏・養豚を生業としていた木田さんをも容赦なく巻き込んだ。飼料価格は高騰し、卵価は急降下。経営を続けることは困難となり、土地を生かして新たな分野である農業への転換を決意した。 |
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↑赤々とした実が緑の葉の間から顔を出す。競うように次々と赤くなっていく |
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■全くの素人から始めた有機にこだわった土作り |
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当時、戦後から続く高度経済成長の影響で、生活が豊かになっていく反面、琵琶湖の水質汚染など、徐々に環境問題が深刻化しつつあった。そんな中、これから農業に携わっていこうとする木田さんが着目したのが有機栽培。今でこそ、有機栽培という言葉も一般的に広まり、消費者のこだわりも見られるが、昭和40年代には有機栽培に対する意識はまだまだ低かった。おいしく安心して食べられるものを作る。その思いから、出荷するもの全てに、その頃まだ珍しい生産者名の入ったラベルを付けた。
「人の口に入るものだからこだわりたかった。今思えば、農業に関して全くの素人だったからこその発想だったかもしれませんね」。
余分な費用はかけられず、約10棟のビニールハウスを家族4人で作りあげた。その傍ら、まずは土が重要と、有志とともに講師を呼んで「有機農業研究会」という勉強会にも毎週参加した。土壌学・植物学から気象学まで一つひとつ習得した。免疫草と呼ばれるステビアがいいと聞き本で勉強しながら加えてみたり、牡蠣殻、薫炭など約10種類にも及ぶ自然からの肥料を使い、試行錯誤しながら生きた土作りを目指した。有機栽培の先駆けとして手探りで始めた農法は、今、この土から作られるイチゴを求めて全国から注文があり、同じ土から生まれる野菜は、厳選食材を扱う会社の契約農家にまでなった。 |
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↑温度が上がると糖度や鮮度が落ちるので9時頃までが勝負。夜明けと共に収穫する |
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■愛情を込めて育て上げる イチゴは子どもと同じ |
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毎年2月頃、イチゴの親株を仕入れる。親株はランナーという茎を次々伸ばし、そこに根を張り一つの苗を作る。一つの株から約30本ほどの派生したランナーを、6月、一つずつポットに移して育苗する。苗が病気にならないよう、育苗中は気温・水などの管理に細心の注意が必要。そうしてすくすくと育った苗は、9月にハウス内に定植され、11月には可憐な白い花に続き、実を結び始める。収穫期は11月〜翌年の6月頃まで。一年以上の月日と手間をかけ、木田さんが「赤いダイヤ」と呼ぶふっくら大粒の赤い実が誕生するのだ。
「イチゴを育てるのは子育てと同じ。栄養をたっぷりあげて、のどが乾いたろうといっては水をあげ、熱かろうといって日差しから守る。病気にならないように常に心を配って…。だからその年最初に実ったものは、気持ちがいっぱいになってしまってなかなか食べられないの」そう言ってテイ子さんはやさしく笑った。
「どうぞ」と差し出されたイチゴは、透き通るような綺麗なツヤを持ち、口もとに運ぶと甘い香りが漂った。ハリがあり、どこからこんなにと思うほどの甘い果汁が口の中に溢れ出す。思いを込めて土を生かし、丹誠込めて作られたイチゴ。惜しみなく注がれた愛情を、自然は素直に受け取って、それはそのまま私たちに還ってくる。やさしさの詰まった赤い果実が、今年も誇らしげにハウス内を彩り始める。 |
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↑3年前から自宅で始めた直売所。イチゴの旗が目印 |
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